松明あかし
2019/05/03
420年以上の伝統を誇る須賀川の松明あかしは、毎年11月の第二土曜日に開催されています。
会場となる五老山は、福島県では、唯一日本都市公園百選にも選ばれている翠ヶ丘公園内にあります。
松明あかし由来
今から約420年以上も前の天正17年(1589年)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、密かに岩瀬地方西部の諸将に密使を遣わしていました。
このときの須賀川城主は二階堂盛義の後室大乗院で、気丈な女城主であり、しかも政宗の伯母でもありました。
政宗が攻撃した会津黒川城主芦名氏は、また大乗院の嫡子である盛隆が城主をしていたこともあって、快しとしませんでした。
政宗の計略に怒った二階堂家の家臣や領民たちは10月10日の夜、手に手に松明をともし、町の東の丘(十日山)に集まりました。そこで決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、城主である大乗院に進言したのでした。
同年10月26日、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側にある陣場山(現須賀川桐陽高校)に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られたのでした。
しかし、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守は、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ったのです。火はたちまち四方に飛び火し、町中が火の海と化してしまいました。須賀川城は火炎に包まれ、家臣の大部分は城と運命をともにして悲壮な最期を遂げたのでした。
文治5年(1189年)から400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家、須賀川城も遂に落城してしまいました。「松明あかし」は、この戦いで戦死した多くの人々の霊を弔うために行われるようになった行事です。
昔は旧暦の10月10日に行われていましたが、現在は新暦の11月第2土曜日に五老山で行われています。
この五老山は、天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が和睦の交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったところです。